いちきかるた

いちきかるた – 公益社団法人串木野青年会議所

いちきかるた あ行

秋太郎元気に 跳ねる東シナ海

市来あ東シナ海

東シナ海のシナとは、古代中国王朝の秦を語源としている、中国では東海と呼ばれており、中国・日本の間に挟まれた海で、水産資源豊富な対馬海流が流れている。秋の時期は秋太郎(バショウカジキ)の漁が盛んになります。

岩屋根の下に 観音様  

市来い岩屋観音

大きな岩が重なって岩屋を造っており、その中に観音様が祀られている。

古くから信仰の対象として祀られている。 

ウミガメ産卵 吹上浜

市来う吹上浜

日本三大砂丘のひとつ。毎年ウミガメが産卵にやってくる。

夏の頃、沈む夕日は最高である。

笑顔あつまる アクアホール

市来えアクアホール

平成13年4月にオープンした いちきアクアホールは地域住民の芸能文化 及び教養の向上並びに健康づくりを図り、メインアリーナは716名収容でき、 文化・体育の両面に利用できる施設です。

往来にぎやか 薩摩街道

市来お薩摩街道

市来町は薩摩街道の宿場町として栄え、街道は鹿児島市の西田橋を基点として出水筋と大口筋の2つがあります。

 

いちきかるた か行

カエルもびっくり どんこ石

市来かどんこ石

池ノ原公民館の山の中にある岩は、カエルが座っているような形から 「ドンコ石」と呼ばれている。

奇跡の蹄鉄 神馬の足跡

市来き神馬の足跡

大里鶴ヶ岡八幡宮石段の途中に直径約10cm程度の窪みがある。

これは言い伝えでは神馬の足跡と呼ばれている。

クロガネモチは 市来の木

市来くクロガネモチ

クロガネモチ(黒鉄黐)とは、モチノキ科モチノキ属の常緑高木。

高木であるが、あまり高くならず、自然状態では明るいところを好む。

葉は革質で楕円形やや波打つことが多く、深緑色。

表面につやがある。若い茎には陵があり、 紫っぽく色づくことが多い。

たくさんの果実を 秋につける。

果実は真っ赤な球形で、直径6mmほど。

景色は最高 轟ケ鼻

市来け轟ケ鼻

市来の町が一望できるスポット。昔は小学校の遠足スポットでした。

また、夕暮れ時にここから眺める東シナ海は格別に綺麗です。

孝行息子の 徳右衛門

市来こ徳右衛門の墓

江戸時代、湊にあった唐人町(今の土橋町)に住んでいた徳右衛門は、すべてを犠牲にして母親に孝行したので、 薩摩藩主島津宗信公から賞賛され、後世までその徳がしたわれた。

 

いちきかるた さ行

さくらもきれいな 観音ケ池

市来さ観音ケ池

千本桜、つつじ、あじさい、花しょうぶ園など、四季を通じて憩いの場となっており、特に4月上旬の桜はすばらしく花見客で賑わいます。

白猿すんでる 日吉山王神社

市来し日吉山王神社

創建は不明だが、石段寄進碑には元禄八年(1695年)と刻んである。

大里門前に所在するこの神社は、大里七社の ひとつである。

白猿が住んでいると言い伝えられている。  

水害防ぐ 市来ダム

市来す市来ダム

八房川の上流に位置するダムで昭和56年(1981年)に完工しました。

川の氾濫を防ぐために作られたダムで、市来のまちを 守り、みんなが安心して暮らせる生活を支えています。

先生育てる 第二師範学校

市来せ第二師範学校

大正9年4月、鹿児島第二師範学校が西市来村に創立された。

今の市来農芸高等学校の場所に昭和9年3月末日まで14年間にわたり、県下の初等教育に従事する教員の養成に あたった。

市来農芸高等学校の正門には、今でも「第二師範学校之碑」が残っている。 

祖先は川上 大久保どん

市来そ大久保利通祖先の墓

大久保利通の祖先は、鹿児島の城下に住んでいたが生活に困窮し、中宿制度を利用し市来の川上の地に やってきた。

数代もの間(7代80年)住んでいたが、 直系の祖先は鹿児島へ復帰し、分家は川上の地に残った。

この祖先の墓が小渕脇に立っている。川上小学校後ろの邸宅は大久保利通祖先が暮らしていた家である。

 

いちきかるた た行

大事な年貢を 預る御蔵

市来た御蔵

租税である米を収納する蔵のことである。

市来小学校の西側、恵比須ヶ丘のちかくにあった。

ちりめんじゃこは 鰯の子

市来ちちりめんじゃこ

いわしの稚魚を塩茹でした後、干したもの。

ちりめんといわれるのは、平らに広げて干す様子が、絹織物の「ちりめん」を広げたように見える事から呼ばれるようになったと言われているようです。  

土の中から 縄文の足跡

市来つ市来貝塚跡

縄文時代後期(約4000年前)南九州を代表する市来式土器の標識遺跡。オオヤマネコの骨や西北九州型漁労文化の伝播を示す石銛が出土した。

天気を調べた 文明開化

市来てアネロイド晴雨計

大里松原の弓削孫兵衛が明治5年に北海道から持ち帰ったもので、上半分が気圧計、 下半分は水銀温度計になっていて、文明開化時の貴重な資料である。 

殿様も泊まった 宿場町

市来とお仮屋跡

島津藩主が参勤交代の途中に宿泊した仮屋(仮御殿)である。

現在は、役場西側の石垣だけが往時をしのばせている。

写真の門は、当時の場所から現在の野田邸に移され、 大事に保存されています。

 

いちきかるた な行

流れ豊かな 八房川

市来な八房川

全長15.5km。八房川の上流には、川上貝塚があり河口付近では潮干狩りが 楽しめる。

八房川、大里川は共に東市来町の重平山付近が源流であり、八房川は北東から町中央北部を 流れ、大里川は南東から西部を横断して、 湊町で合流し東シナ海に注いでいる。

にっこり笑顔で 市来の子

市来に市来の子供

笑顔は心も身体も健康にします。

ピンチをチャンスに変え、人生を豊かにするといわれています。

いつも笑顔を忘れずに、家や学校で元気よくあいさつをしましょう。

ぬかるみふんばる 学童田んぼ

市来ぬ学童田んぼ

はじめは慣れない田んぼにおっかなびっくりだった学童たちも、次第に長靴をぬいで田んぼに入り、泥んこになりながら笑顔で田んぼ内を 歩き回っていました。

他にも、自分からすすんで苗を取りに行き、植える場所を教えあいながら植える学童たちの姿もあったりと、楽しく田植えを行いました。

願いが通じた 倒住さあ

市来ね床次倒住さあ

大雨で大里川が氾濫をおこし、藩主の補助と指導を得て工事を行ったが、大雨で何度も壊され、現場監督は日吉山王神社のご神託を受け、自らが人柱となって工事は無事に完成しました。

野牧の入口 今は外戸(けど)

市来の市来野牧

旧東市来から市来にかけて馬を飼育するための野牧があった。毎年4月頃、馬追いを行い二才馬を藩へ差し出していた。

この馬追いは一大行事で皆弁当を持って見物に出かけていたという。

現在の外戸という地名はこの野牧の入口で あったことからその名が付いたと言われている。

 

いちきかるた は行

はなもれどんは とぜっどんの墓

市来ははなもれどん

「狩人の神」の話に出てくる主人公、とっぜどんと又次郎兄弟で、兄が千匹の猪を獲らせてもらう代わりに 命を捧げる約束を神とした。

遺体は三方塚の杉の根元に、右の耳は行司塚に、 左の耳は才野ヶ原に埋めて往来する人の供養の花が欲しいと語った。

その左耳が埋葬されているのが はなもれどんの墓といわれている。

ビタミンたっぷり 大里みかん

市来ひ大里みかん

市来のみかん栽培は、当時は庭先で栽培する程度の規模であったが、昭和3年の周山地区開墾と昭和4年の大谷山開墾をもって、集団栽培がはじめられた。    

ふるさと思い たたずむ墓塔郡

市来ふ来迎寺跡墓塔郡

島津初代藩主忠久の生母丹後局の勧請で承元元年(1207年)に建立したと伝えられる。

市来氏歴代の領主の墓も建てられている。

鎌倉室町時代の墓塔形式を知るうえで貴重なものとされています。

平安美人 丹後局

市来へ丹後局

丹後局は別名「高階栄子」といい後白河法皇の寵姫で、島津初代、忠久の母である。

丹後局が薩摩へ下向したとき、舟を着けて上陸した場所といわれる。

現在の市来駅付近。 

防砂林、砂の害から 畑を守る

市来ほ防砂林

防砂林がない時代は、暴風雨があるたびに畑が砂に埋もれたりといった砂の害に悩まされていました。

今から90年ほど前に整備が完了し、現在に至っております。

 

いちきかるた ま行

埋蔵金眠る 川上城

市来ま川上城

川上中組集落に、町指定文化財「川上中組墓塔群」が ある。

この五輪塔の台座に埋蔵金のありかを示したといわれる「朝夕影ナシ」の文字がきざまれている。

川向にある川上城跡は中世に建てられた中世山城で、市来を治めた市来氏の分家の川上氏の居城だと言われている。

川上氏が城を追われて逃げるときに軍資金を隠し、台座にその在り処を記したと考えられている。

見張りも厳しい 川口番所 

市来み川口番所跡

川口番所は、役場横の菅原神社付近にあったと言われる。

通常は津口番所と呼ばれ、当時頻繁に行われていた密貿易や外国船の漂着などを取り締まるのがその役目であった。

虫追踊りで 豊作祈願

市来む虫追踊り

鎌倉時代、稲につまづいて討たれた斉藤実盛が稲虫となって稲に害を与えることを鎮めるために、大里の実盛の塚の前で踊られるようになった 太鼓踊りである。

太鼓の細く長い矢旗と鉦の踊るリズムが特徴的である。

恵みをもたらす 田の神さあ

市来め田の神様

田んぼを守り米作りの豊作をもたらす神として、日本全国に民族的伝承として伝わる。

特に南九州地方のものは、鹿児島県及び宮崎県南部の旧薩摩藩に特有の伝承として、有形民族文化財に指定されています。  

持ち上がるかな 力石

市来も力石

「力石」と呼ばれる直径約40cm位の丸い石。

昔は青年の力比べに使われていた。

盤持/磐持/晩持持石(ばんもちいし)、力試し石 (ちからためしいし)など各地方によって様々に呼ばれる。

 

いちきかるた や行

厄災はらう 馬頭観音

市来や馬頭観音

馬頭観音世音菩薩は六観音のひとつである。

馬の無病息災や、道中で死んだ馬の冥福を祈った。

町内では林道長牧広野線に明治十七年に建てられた馬頭観音がある。

勇壮華麗な 七夕踊り

市来ゆ七夕踊り

文禄慶長の役での島津義弘公の朝鮮役での活躍を称えて踊られたのが始まりと言われ、島津家の家紋をつけることを許された五穀豊穣の踊り。

用心重ねた 町門の跡

市来よ町門の跡

昔、串木野方面から湊町に入るところに門があり、これを町門といった。

町門の跡は今の天神町にあった。

この門は、湊町に出入りするための門で木や竹を組み合わして作られ、お仮屋に近いせいもあって、 町内の出入りを厳しく取りしまった。

 

いちきかるた ら行

ラベルがずんばい 市来ん焼酎

市来ら酒蔵

明治42年ごろ松崎吉次郎が、市来で初めて芋焼酎製造に成功した。そして種々の改良工夫が加えられその品質は、いずれも優秀として度々の鑑評会で上位入賞し、市来焼酎の名を高めてきた。

隆盛誇った 金鐘寺

市来り金鐘寺

今から600余年前、了堂和尚が開山したと いわれる禅寺で、当時は七堂伽藍が建ち並び、末寺が全国に49にも及ぶ隆盛を誇っていた。

明治2年の廃仏毀釈により廃寺となった。

ルーがきめての ポンカレー

市来るポンカレー

地元で60年以上にわたって生産され、高い糖度が自慢の地元産ポンカン。

近年はそのポンカンを使ったカレーライス「ポンカレー」が地元の特産物の一つになっています。

口に運ぶと甘酸っぱい風味が広がり、 後味もカレー独特のしつこさが和らぎ、すっきりした感じです。

「あたらしいけどなつかしい味」のカレーライスです。

歴史を伝える 川上踊り

市来れ川上踊り

五穀豊穣と平和を祈願して、旧市来町川上地区で300年前から踊られている太鼓踊りである。

八月二十六日に近い日曜日に、地域内の神社の境内で合計八回の踊りが奉納される。  

ローソクきらめく ラブリッジ

市来ろラブリッジ

市来若者隊が日ノ出橋でバレンタインデーのイベントとして始めたラブリッジ、毎年多くの カップルがロウソクを灯しに訪れています。

暗闇の中に光るロウソクの明かりはとてもロマンチックで年々訪れる人も増えてます。

 

いちきかるた わ行

若さでアタック ビーチバレー

市来わビーチバレー

いちき若者隊が中心となって行っている、 ビーチバレー大会。

毎年夏夏休み最後の日曜日に、照島海岸で約400人が参加してビーチバレーを開催しております。  

いきを合わせて ヤマを引く

市来を祇園祭り

文化9年(1812年)八坂神社建立の年から始まったと伝えられ、湊町が最も栄えたころで、 当時の商人若松宇吉などが京都に行って習い伝えたと言う。

山車に男山と女山があり、行列に漢林王ばやしもある。

んにゃち言わじ きばっがほい

市来んんにゃ

“ん”で始まる言葉は全国探しても鹿児島 だけかも知れません。

びっくりした時に使う方言の一種です。

ちなみに、んだもこらいけなもんな~で始まる 『ちゃわんむしの唄』も、”ん”で始まる歌として全国でも珍しがられています。

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